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成功する人は、チャンスを遠ざける「あいうえお」の言葉を使わない。―IT業界の女帝・奥田浩美に学ぶ

今回は、リクナビネクストジャーナルではお馴染み、IT業界の女帝と呼ばれ、数多くの企業のスタートアップに携わってきた奥田浩美さんに、「チャンスを逃さず、成功する人の条件」について、教えていただきました!

 

■自分の言葉を意識していますか?

『ワクワクすることだけ、やればいい!』という本を上梓してから3ヶ月がたちましたが、先日、まさにワクワクする対談を行ってきました。対談のお相手は、この3月にLINE株式会社CEOを退任後、C Channel株式会社を立ち上げられた森川亮さん。その対談については、「【森川亮×奥田浩美】人間はダメだと思った瞬間からが勝負。そこから自分を鍛れば成長するはず」にて紹介しているのですが、そのときに気づいたことがあります。

森川さんとの対談の場が本当に心地よくてワクワクする気分で、こういう場には、「幸運の女神も近づいてくるだろうなぁ」と思える空気なのです。

そのワクワクした空気は何からくるのだろうか?と思って気づいたことがあります。森川さんの口から発せられる言葉がすべて未来を切り開いていく決意に満ちた言葉で、私が本の中に書いている「チャンスを遠ざけるあいうえおの言葉」が一切ないのです。ところでその「チャンスを遠ざける”あいうえお”の言葉」って何のことなのかは後ほど詳しく説明するとしましょう。

その前に、みなさんは自分が発している言葉を意識したことがありますか?あるいは、自分がいる環境で交わされている言葉を意識したことがありますか?

自分が発している言葉、そして周囲でかわされている言葉で、あなたが幸運の女神に愛される人か、幸運の女神が逃げていく人かが一瞬でわかります。

■チャンスを遠ざける「あいうえお」

『ワクワクすることだけ、やればいい!』の冒頭に幸運の女神が逃げていく「動けない人のあいうえお」という章があります。この「あいうえお」の行動、そして言葉が溢れる場には幸運の女神が近寄ってきません。

「チャンスを遠ざけるあいうえお」とは、以下の五つです。

あ あきらめ

い 言い訳

う 後ろ向き

え 遠慮

お 思い込み

具体的にどういうことでしょうか。今でこそ、『チャンスは雨のように降っている』と言い切る私ですが、20代半ばまでは、自分にチャンスがあふれているなんてことは思ったこともなく、特別面白いことが将来待っているなんて思いもしない、地方の大学生だったのです。そんな私の背景を今回は少しだけ紹介します。

■へき地育ちで、大きな夢なんて無かった10代

私は十五歳まで、鹿児島のへき地を転々として育ちました。父親は教育者でありながらも相当な変わり者で、異動の際に赴任希望地をいつも空欄で出すような人でした。他の先生方が行きたがらないへき地ばかりを充てられ、いつしか、へき地教育のエキスパートのような存在となっていました。そんな父の赴任先に伴われ、幼いころは数年ごとに転勤暮らしでした。

そんな鹿児島の田舎を転々として育った私はいつも自分が異質なものとして扱われていたように思います。そのせいか、子供の頃は、なにをやっても受け入れられないような環境、すべて「あいうえお」の世界の中で生きていたように思います。

【あ:あきらめ】15歳で母になる

まずは私の15歳の頃の出来事の話をします。中学3年生の夏休みのこと、父から驚くべきことを言い渡されました。

「鹿児島市内に家が建ててあるから、その家に、妹と2人だけで住むように」

 父の次の赴任先の近くには高校がなく、これから高校進学を控える私たちを一緒に連れていくわけにはいかない…また、娘二人の教育のためにも親元を離れて生活させるべき…と考えたのだと思います。父の揺るぎない決断でした。当時私は15歳で妹はわずか13歳。何が何やらわからない状態で、結局私たちは鹿児島市内に転居することになりました。

今思い起こすと何故素直に受け入れたのか不思議ですが、父の言う事は“絶対”、反論は許されないモノなのだとはなから「あきらめ」ていたからかもしれません。今、さだまさしさんの少年時代のお話のドラマがテレビで放映されていますが、教育のために親元から子供を遠くに出すというのは九州ではそれほど珍しくないのかもしれません。ですが、「女の子だけで」というのは、周りからかなり驚かれました。父親の決定は絶対。高校受験も大学受験も、すべてそんな父の決定に従うしかないという「あきらめ」の世界の始まりです

生活費については、「月々に決められた額の仕送りはしない」といわれました。どういう意味かと言うと、父親の給料がそのまま入れられている銀行のキャッシュカードを私たちにそのまま渡すというのです。「13歳の妹に胸を張れる暮らしを築きなさい」と。突然、独り立ちどころか、私は13歳の妹の母になったのでした。

【い:言い訳】すべてを“転校”のせいにする日々

転校した鹿児島市内では、すでに中学3年の教科書は終わり、厳しい中学受験に向けての対策の時期に入ろうとしていました。田舎暮らしで、田舎ののんびりとした授業を受けていた自分は、習ってもいない二学期分を自力で勉強するしかありません。受験まであと数ヵ月という時期に入れてくれる塾も無く、そのうえ家事に追われて塾に通う時間的余裕もないまま、わたしの受験準備は過ぎていきました。模擬試験など二回しか受けられず、行きたい学校もわからないまま、父やクラスの友達が勧める高校に入学しました。本当はもう一つ上の高校に行きたかったのですが、習っていない単元が多いことから、チャレンジをあきらめてしまったのです。

私の高校受験はというとあきらめの気持ちに加え、たくさんの言い訳をした出来事のように感じます。

・中三のあんな時期に転校しなければ、私は好きな学校に行けたはず

・親が一緒に住んでいれば、家事の時間もいらないしもっと勉強できたはず

・ちゃんと模擬試験を受けられれば、もっと自分向きの学校を選べたはず

だから、私は好きな学校に行けなかった…と。すべてが言い訳です。

【う:後ろ向き】高校のすべてが嫌いに

今の私からはまったく想像がつかないと思いますが、高校時代は、後ろ向きな気持ちでいっぱいの三年間を過ごしました。表向きは十分明るくて、ひょうきんな性格だったと思いますが、気持ちのどこかが冷めた子でした。すでに家計簿をつけ、一戸建ての家を管理し、すべての家事を行い、固定資産税の納め忘れを気にしているような自分とは、周りのお嬢ちゃん、お坊ちゃんとなんて話が合わないと自分で壁を作っていたのだと思います。

私が進んだ高校は、当時有名なスパルタ教育の学校でした。体育会系とは真逆の性格だった私のことですから、高校のすべてが嫌いでした。高校時代の風景として記憶にあるのは、教室の窓から落ちてゆく夕日を眺めながら、今日は夕飯、何作ろう…と考えている自分の姿です。「どうせ自分の行きたい大学なんて行けやしない。大学も父が決めたところに進むのだ」という後ろ向きな気持ちで3年間を過ごしました。受験に対してもとても後ろ向きでした。そのうえ、「『2つ年下の妹がいるから地元の学校に進んでくれたほうがいい』と親は思っているだろう」という空気を察していたのだと思います。

【え:遠慮】いろんな気持ちを封印した

いろんな気持ちを10代後半の心に封印していたのだと思います。

そういった環境から、あきらめ・言い訳・後ろ向きな気持ちに、さらに「遠慮」が加わります。つまり、東京の大学に行きたい思いがあったのですが、妹との暮らしを現実的に考えると、妹を残してのそんな希望は口にはできず、気持ちを封印したまま、地元の大学へ進学したのです。

今考えると大学まで行けたことは本当に恵まれた状況だったのだと思います。しかしながら、そんな恵まれた状況の中で勝手な「遠慮」をしながら「自分はチャレンジしなかった」と思い込んでいるのはなんて悲しいことでしょうか。

【お:思い込み】地方では夢なんて持てないと思った

都会の大学に進んでいった友達はどんどん新たなことに挑戦してキラキラして見えましたが、自分はというと地方には仕事が無い、選択肢が無い、夢なんて持っても仕方ないという思い込み。地方にいても社会を変えるようなことは出来っこないという思い込み。大学時代の私は今とまったく違って、まったく社会に関わろうとしない子でしたし、関わってもなにも変わらないという思い込みがありました。

大学の専門課程では、小学校の教員免許も取得し、障害児教育の免許も取得しました。尊敬できるゼミの先生にも出会えましたし、大学四年の夏、最終目的の教員採用試験をクリア。ですが、教員採用試験の合格通知を得たとき、自分の目の前にこれからの数十年分のレールが遠くまで広がり、闇の奥までつながっているような、そんな思いを抱いたことを覚えています。それはそのときにはうまく説明ができなかったのですが、今思うと、堅実な道を選ぼうとしていた自分と「もっと違う可能性があるのでは?」と考える自分との葛藤の中で生まれた闇だったのではないかと思います。

■チャンスに正面から向き合っていますか?

ここまで、私の22歳までのことを書いてきましたが、読者の皆さんの中には「この人生のどこが大変だったの?」「私なんてもっと苦労の連続だったよ」「俺から見たら幸せの塊にしか見えない」という方も多いかと思います。もちろん辿ってきた道は人それぞれだと思いますが、幸せだったかどうだったかより、チャンスにちゃんと向かい合ってきたか?ということをお話ししたいのです。私は沢山のチャンスを正面から見ようとしない子供時代を過ごしてきた気がするのです。

今私は、地方の高校生・大学生に講演をする機会が沢山あります。特に地方には昔の私のような子供たちがたくさんいます。そういう子供たちにも見方を変えると大きなチャンスが広がっていることを伝えたいのです。

■“あいうえお”はチャンス到来のシグナル

チャンスを遠ざけてしまう“あいうえお”について紹介してきましたが、こういう思いの時に出てくる言葉が

「だって」

「でも」

「どうせ」

という言葉です。22歳までの私はこの3つの言葉を頻繁に口にしていたと思います。自分が恵まれた状況でも、そうでなくても人間は誰だってこういう思いが必ず心の中に湧き上がってくるはずです。

しかしながら、チャンスを掴む人間になるためには、これらの『あいうえお』が湧きあがってきたときに気付くことが大事なのです。こういうことを思わないようにしようといっても、それを止めることはむずかしく、逆にそういう思いが頭をよぎった瞬間に「あ、これはチャンスを逃す発想だ!気を付けよう」「逆にチャンスのシグナルだ!」と思うことが大切だと思うのです。

「だって・でも・どうせ」という言葉を口にした瞬間、それはチャンスだと思ってください。「だって・でも・どうせ」の裏に本音があるからです。

そして、そんな「チャンスを遠ざけるあいうえお」の世界で生きていた私が、インド留学を経て、シリコンバレーの企業との仕事をするようになり、逆境の中からチャンスをつかめる考え方に変わっていったのです。さらに詳しい経緯については『ワクワクすることだけ、やればいい!』PHP研究所刊に書かせていただいてます。よろしければお読みください!

 

奥田浩美

MacworldやWindows Wolrd、interop、Google Developer Dayをはじめとする数々のIT系大規模コンファレンスの事務局統括・コンテスト企画などを行う株式会社ウィズグループ創業者。2013年には株式会社たからのやまを設立。2014年より、独立行政法人 情報処理推進機構(IPA)の未踏IT人材発掘・育成事業の審査委員を務め、若い世代の新たなチャレンジを支援している。これまでに携わったITイベントの数は300以上。のべ動員数は10万人以上。数億円規模のイベントをいくつも成功に導いている。近書に『人生は見切り発車でうまくいく(総合法令出版)』、『ワクワクすることだけ、やればいい!(PHP研究所)』がある。

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