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子どもには「叩かなければわからないこと」があるのか

■「叩かなければわからない」は思い込み

こんな話を聞いたことがあります。ある男性が子どものころ、親に無理矢理石油ストーブの熱いところに手を押し付けられたということでした。「石油ストーブ は熱い、触ると火傷をする」ということを教えるためだとその親は冷静に話したそうです。そして今でも「その教育は間違っていなかった。感謝しなさい」と 言っているということです。私は石油ストーブに手を押し付けられた経験はありません。しかし石油ストーブに手を付ければ火傷をするということは知っています。私だけではないでしょう。石油ストーブの危険性を教えるために実際に無理矢理手を押し付けるというのはどう考えても非合理的です。

「叩かなければわからないことがある」というのも同じではないでしょうか。「叩かなければわからないこと」とは、具体的にはどんなことでしょうか。私には 思いつきません。試しに聞いてみたいものです。「叩かなければわからないことがある」と言う人に、たとえばどんなことなのかをヒアリングして、リストにし て、大勢の人に見てもらいます。「ああ、そうそう、これって叩かれないとわからないんだよね」とみんな共感するでしょうか。そんなことはないでしょう。大 半の人は叩かれなくても理解したことばかりのリストができあがるはずです。「叩かなければわからないこと」というのは単なる思い込みであるケースがほとん どではないかと思います。

■「叩くしかない」のは叩く側の事情

「叩かなければわからないこと」はないとしても、つい叩いてしまうことがあることは理解できます(もちろん私にも、ついカッとなって子どもを叩いてしまっ た経験はたくさんあります)。でもそれは合理的な判断によって叩いているのではなくて、ついかっとなって叩いているだけですよね。そのことは叩いた本人も 自覚しているはずです。もしくは、似たような状況ですが、とっても大切なことを伝えたいと思って、叩く以外の方法が思いつかないということもあるのかもし れません。でもそれって、幼児が、自分のほしいおもちゃを貸してもらいたいのに言葉でどう伝えたらいいのかわからなくて、つい叩いちゃうのとまったく同じ だと思います。いずれにしても、一種の思考停止状態、パニック状態がもたらした蛮行です。ついやってしまうことがあることに同情はできても、正当化するこ とはできません。

「あの状況では叩く以外に手段はなかった」というのは大抵、叩かれた側の問題ではなく、叩く側の事情です。言葉を失い、叩くという方法しか思いつかないの は、その人の叱る能力の限界を示しているにすぎません。人間の器としてもっとキャパがあれば、叩く以外の方法を選択することだってできたはずなのです。そ う言うと、「子どもは口で言ってもわからない」という反論もあるかもしれません。たしかに何度いってもわかってもらえないことはたくさんあります。しかし だからといって叩けばわかってもらえるという保証はどこにもありません。しかも次のような場合はどうすればいいでしょうか。たとえば子どもが取っ組み合い のケンカをしてお互いに怪我をしたとします。一歩間違えば大怪我だったかもしれません。そこで大人が、「お前たちは叩かれないとわからないのか!」と子ど もたちをひっぱたいたとします。そのとき「はい、だから取っ組み合いをしていました」と言われたら、大人としてはどうやって正しい道を示すことができるで しょうか。矛盾は明らかです。

■動物の調教と子どもの教育の違い

ただしやっかいなのは、叩いたりすると、瞬間的に効果があったように見えることがあるということです。肉体的痛みというのは即座に脳に伝わります。それを 回避したいという本能が働きます。それをしつけに応用しようという理屈は完全に効果がないとはいえません。実際に動物の調教などでは多用されているのでは ないかと思います(イヌのトレーニングなどはプロに頼めば、今は叩いたりはしないと思いますが)。しかし、動物の調教と、人間の子どもに対する教育は違い ます。動物を調教するということは、その動物が野生の中で自分の力で生きていく力を奪うことで、人間に従わせる行為です。同じことを子どもにしてしまった ら、子どもはいつまでも自立できません。

鞭のような外的動機付けで成長させられた人は、鞭がなくなれば、自分で自分を成長させることができなくなります。自分の中に成長する力が備わっていないの で、困難にぶつかると、また自分を痛めつけてくれる指導者を求めるようになります。「叩かれなければわからないことがある教」から脱退できなくなるので す。そして自分も他人を叩くようになります。一方、自ら望んで試行錯誤をして成長した経験の豊かな人は、どんな困難にぶつかっても自分の力でそれを乗り越 えようとします。そしてあくまでも内的動機付けによってブレイクスルーを経験します。「人は変えられる(外的動機付け)のではなく、自ら変わる(内的動機 付け)」ことを、身をもって知ります。だから人を叩くこともなくなります。
 

■叩かれて育った子は、叩くことを覚える

「叩いてでも教える」という表現もあります。さも、叩くことが最上級の愛情のようなニュアンスがあります。しかし、叩くという手段が叱る側にとっての最終 手段ではあっても、叱られる側にとっての最高の手段ではないということは、以上のことを考えればご理解いただけるのではないでしょうか。

たしかに、普段は温厚で絶対に子どもを叩いたりすることのない父親が、よほどのことで正気を失い、子どもを叩いたとしたら、子どもに強烈な印象を与えるこ とでしょう。「叩かなければわからないことがある」と唱える人は、そういう強烈な体験がある方々なのではないかと思います。でもそれは「人前で絶対に涙を 見せたことがなかった気丈な母親が泣いた」とかいうのと同じことです。つまり叩く「必要」はありません。それに、何度も使える方法ではないということです。

そして何より恐ろしいのは、「叩かれなければわからないことがある」という信念に基づいて育てられた子は、うまく伝えられないことがあるときには「叩く」 という手段を選べばいいと学んでしまうということです。それが国家単位で広まると、外交ではなく、戦争という手段で他国とコミュニケーションをとるように なるのだと思います。恐ろしいことです。(執筆:おおた としまさ)

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